【『澪つくし』感想】桜田淳子演じる律子に見える大正ロマンアイテムを調べてみた!

朝ドラ 澪つくし かをるの異父姉律子のキャラは大正ロマンの象徴

ドラマ『澪つくし』のスタートは大正15年。
大正天皇が崩御し昭和に移り変わるところから始まります。

大正時代は、第一次世界大戦からの好景気に沸き、裕福になってきた人々は西洋文化を取り入れることに積極的になります。
また西洋文化の影響を受けて個人の生き方を追求しようという、いわゆる『大正デモクラシー』の思想が広まり、平塚らいてう、市川房枝などによる女性運動や労働者の差別を無くそうという社会主義運動も高まります。

大正時代はこの世相を背景に、文学、芸術、ファッション…自由と自分らしさを追い求めた和洋折衷でユニークな文化が花咲きました。
そのような当時の文化様式を総じて大正ロマンと呼んでいます。

大正ロマンのファッション、デザインは、自由で斬新で華やかな印象がありますが、一方で大正時代後半の不景気や、大正12年(1923年)の関東大震災による失望感も反映されているのか、開放的でありながら、どこかアンニュイなものが内包されている印象を覚えます。
この陰と陽が共存している感じががまた独特な雰囲気を醸し出しています。

 

桜田淳子さん演じる律子さんは、ドラマの始まりでは19歳。
大学を卒業して、家族の住む銚子に移り住んできたところです。

東京の栄光女子大学で学び、読書を好み、芸術を愛し、恋人は社会主義者で同志…。
当時の時代、大正デモクラシーをまさに体現する存在。
もう存在そのものがドラマチック!

幼児期の刷り込みか、前世に何かあるのか?(笑)大正ロマンの雰囲気に弱い私は、律子のセリフ一つ一つを聞くたびに、行動一つ一つ見るたびにワクワクして興味津々。
律子の話す物事、音楽やらファッションやらがどういう位置づけだったのか、どんな意味があるのかを知りたくなっちゃって知りたくうなっちゃって…で、調べてみました!

ドラマの律子をより深く楽しむために、ぜひご参考にしてみてください!

 

律子のファッション=モガ

律子さんの初登場シーン、入兆の男衆に迎えられ銚子駅から出てきた姿はあまりにも鮮烈でしたね。

かをるをはじめ、銚子の町の人のすべてが着物の中、律子は洋装での登場。

ひざ下丈のワンピース、釣鐘型の帽子にパンプス姿。
そして髪型は断髪(ショートボブ)。
デザイン様式としてはアールデコがベース。

「あれがモガってやつですかね?」
女中のツエさんが、人力車で通り過ぎる律子を食い入るように見つめながらかをるに確かめてましたが…。
そう!
この格好がモガの典型的ファッションです。

「モガ」とはモダンガールの略。
これに対して男性はモダンボーイの略で「モボ」。
大正末期から昭和初期にかけて、西洋文化を取り入れた最先端のファッションをする若者たちを、そう呼んでいました。

これまで和服が主流だった中で日本の女性のファッションの転換点とも言えます。

彼らはファッションだけでなく、大正デモクラシーの風潮を背景に、伝統の枠にとらわれることを嫌い、自由を重んじ個人の生き方を追求する最先端の思想の持ち主でもありました。

ただし当時の大人からしたら不良扱いだったみたい。
まあ、どの時代も最先端のファッションをする者たちは、保守的な人間には受け入れられないものですからねー。

ただ、このモボ・モガ、その後の金融恐慌、世界恐慌、第二次世界大戦…と日本の景気の急降下とともに自然消滅してしまいます。
まあね、もうそれ以降はもうお洒落なんてしてる場合じゃなくなっちゃいますからねえ。

彼らの自由や主張も、たった一瞬の煌めきだけに終わってしまったというのも、なんだか切ないですね。
しかもその原因が戦争だから余計に辛い。

しかし、このモボ・モガ ファッション、今でも十分通用するなあ。
そして、桜田淳子さんにすごく、すごく似合ってて~見とれてしまいます。

 

(参照:ウィキペディア「モボ・モガ」

 

水橋との逢引きの合図の曲は何?

律子の恋人、水橋との逢瀬の逢瀬は律子の弾くピアノでした。
あのピアノ曲は、ショパン マズルカ第6番イ短調Op.7-2 です。

ちらっと見たところによるとショパンは失恋で凹んでいた時にこの曲を作ったとか?
確かにちょっと切ないような旋律ですよね。
律子と水橋の悲恋にぴったりな感じ。
そして美しくも陰鬱なものを内包する大正ロマンの空気にぴったりでもある。

ショパンの音楽は、クラシックをたしなむ日本人が増えてきた大正時代に流行ったみたいです。

参照 :PTNA 第06番 (5つのマズルカ Op.7より 第2曲 イ短調)

 

かをると律子が聞いていた交響曲は?

第28話では、謹慎中の律子がかをるを部屋に呼んで歓談するシーンがあります。
そのとき聞いている交響曲は、ドヴォルザーク『新世界より』第9番 第2楽章。
1893年に作曲されたものです。

「遠き山に日は落ちて~」っていう、アレですね。
歌だと思ってたのに元は交響曲なのね~。

調べたら歌としての曲は『家路』というタイトルで1922年に発表されていました。
ドヴォルザークの弟子フィッシャーが、第2楽章『ラルゴ』を独立させて編曲して歌詞を乗せたのだそうです。
「遠き山に~という」日本語の歌詞は堀内敬三によるもので、戦後教科書に長期間掲載され唱歌として定着していきました。
日本での歌バージョンの発表は1930年でした。

ドラマは1927年の時代設定なので、その頃は『家路』は日本では未発表。
二人が聞いているのは交響曲『新世界より』ということですね。

この第9番第2楽章だけが、切り離されて編曲され独立ということはかなり評価が高かったということでしょう。

律子さん、クラシックの中でも当時のトレンドを聞いているってことですよね。
さすが!

参照: ウィキペディア 『新世界より 交響曲第9番
ウィキペディア 『家路(ドヴォルザーク)

 

第28話のかをるの律子の会話に出てくる東京アイテムを調べてみた

 

律子さんの見に行った定期演奏会

さらに第28話では、律子がかをるに東京のことを話しますが、当時を彷彿とさせるワードが次々と出てきます。

律子「東京の青山にね、日本青年館というのがあって、そこで日響の予約演奏会があるの」
かをる「日響?」
律子「日本交響楽協会のことよ。すごいオーケストラでね、50人近くもいるの。この曲も演奏されたわ。指揮は山田耕筰」
かをる「素晴らしかったでしょうね」
律子「うん!興奮して眠れなかったくらいよ~!」

 

え?日本青年館って、こんなときからあったんだ!とビックリ!
山田耕筰って?誰?

律子とかをるの最高にオシャレで高尚な女子トークにワクワクしながら調べてみました。

日本青年館

日本青年館は大正14年に開館。
日本の各地域に居住する20代ー30代の青年男女により組織される青年団のための施設として完成。

大正14年ということは、できて1年くらいしかたっていないということですね。
当時の最新、最先端のホールでコンサートっていうキラキラなエピソードです。

参照:ウィキペディア『日本青年館
ウィキペディア『青年団

 

日本交響楽協会

日本で最初の本格的オーケストラ。
1925年の3月に山田耕筰と近衛秀磨により結成されました。
同年、近衛秀磨はこの日本交響楽協会から離れ新交響楽団を立ち上げますが、これが後のNHK交響楽団。

日本青年館は新交響楽団の最初の本拠地で定期演奏会を行っていたそうです。

 

参照:日本交響楽協会とは コトバンク
ウィキペディア 『NHK交響楽団
『新世界より』を聞く

 

山田耕筰

山田耕筰は日本の作曲家、指揮者。
日本初の交響楽団である日本交響楽協会を設立し西洋音楽の普及に貢献しました。
日本交響楽協会は近衛秀磨と共に設立。
しかし半年ほどで近衛秀磨は日本交響協会を離れて新交響楽団を結成してしまいます。
これは近衛秀磨との対立が原因。
怒った近衛秀磨が殆どのメンバーを引き抜いて新交響楽団を設立しまったそうです。
なんだ、キラキラかと思ったが結構ドロドロなのね。
ちなみに山田耕筰の元に最後まで残っていたのが黒柳徹子さんのお父様だったそうですよ。

 

ウィキペディア 山田耕筰

律子さんの恋しい東京

さらに律子さん、東京には何でもあるとかをるに東京のことを懐かしんで話します。

かをる「やっぱり東京に行かないとだめですね」
律子「東京にはあらゆるものがあるわ。最新流行の洋服。洒落たカフェ。銀座のデパート。鉄筋コンクリートのアパート。そして新しい思想を持った若者たち…」

デパート、アパート…それぞれ何のことを言っているのでしょうか?

銀座のデパート

松屋銀座

松屋銀座は、明治23年に東京進出。
明治40年に建物を洋風三階建てに増築し日本初のデパートメントストアとしてオープン。
しかし関東大震災で主要店舗を焼失しますが、大正14年5月に銀座3丁目に銀座営業所(銀座本店)を開業します。
この新しい店舗では、下足預かりが廃止。百貨店初カフェテリア式大食堂、ツーリストビューロー、安本亀八の活人形などがあり今のイメージに近いお洒落な百貨店の誕生でした。

 

銀座和光

銀座和光は明治28年に開業。
大正12年、新店舗の建て替え工事中に関東大震災に見舞われます。
建築工事の再開は昭和に入ってからなので、大正14年、15年では営業していなかったかも。

 

三越銀座店

三越銀座店は昭和5年の開業。
律子さんが遊びに行っていたころの銀座には存在していませんでした。

 

ということで、律子さんがお気に入りだった銀座のデパートとは、松屋銀座のことでしょうね。

 

松屋銀座 松屋銀座の歴史
OZ  東京再発見 銀座三越 
三越伊勢丹ホールディングス 三越のあゆみ
銀座和光 和光と時計の歴史

 

 

鉄筋コンクリートのアパートって?

関東大震災からの復興を目的として1924年(大正13年)から1933年(昭和8年)の間に、東京13か所2225戸、横浜2か所276戸のアパートが建設されていきます。
それが同潤会アパートです。
耐久性を追求し、当時としては最新の鉄筋コンクリート構造。
電気、都市ガス、ダストシュート、水洗トイレ、コルク床、当時の最先端の設備が施されていました。

今は表参道ヒルズがある場所にあった有名な青山アパートメントは大正15年に完成。
律子さんの言う鉄筋コンクリートのアパートメントとはコレ!
代官山アパートメントは昭和2年なので、まだ存在していません。

参照:ウィキペディア 同潤会アパート

国立国会図書館リサーチ・ナビ 第119回常設展示 『日本の集合住宅ーアパート、マンションに見る20世紀』

 

律子さんの話をこうやってひとつひとつ紐解いていくと、当時の東京はいかにモダンで洒落てキラキラしていたことか!
そして入兆に戻ってきた生活は律子さんにとってどんなに退屈だったろうかとも同情してしまいますね。

また、あらたなワードが出てきたらレポートしたいと思います!